老人介護のエピソード
(3)老々介護を必死にしていた親父
ある日、私の机の電話が鳴った。滅多なことで電話かけて来る親父ではないのに、事務の女性から「お父さんからお電話です」と言う。
親父は一般的な昔人の性格だから、勤務時間中に私的な用件で電話をするような不謹慎でないことは、子どもの頃からよく知っている。
おやっ?と、思った瞬間、電話の向こうからお袋の訃報が告げられた。
私はその時、縁あって日本でも5指に入るスーパーゼネコンに勤めていたのである。前職は商品の一つや二つ言えば誰でも知っている大手で、幾つかの業界でも有名な会社であったが1年前に倒産したのである。事業部門が沢山あったので各部門毎にいろんな有名企業に分割・売却された。
私は事業部が移る会社に年齢制限(当時56歳)で行けなかったので自主退職し、いろいろと就職活動をした。会社都合によるものなので倒産したにも拘わらず、退職(2種退職)金はお蔭で満額もらえた。辞める際には、さすがに大手企業だけあり、1人当たり世間で15万円近く必要とされる就職活動のための教育として、1週間近くだったかな(?)履歴書・経歴書・添え書きの書き方から面接の受け方まで無料で受講させてくれた。
人材銀行などに登録していたこともあり、大手から幾つも声はかかったが、通勤が大変なので片っ端から断った。それまで何十年も通勤に往復4時間近くを要していたので、時間の無駄使いは懲りごりだったのである。
ある日、派遣会社から声がかかった。私の経歴書を他企業に見せてもよいかという承諾依頼だった。企業名を聞いて快諾、早速面接になり派遣先で即採用が決まった。どうやら、種々の経歴内容が実に上手くマッチングしたらしい。派遣とは言っても一応名刺に役職もつけられ、対外的にはあたかも正社員と思われる形である。一般派遣社員と異なり、他の派遣社員にお手伝いもしてもらえるが、課長・主任クラス以下の正社員にも自由にお手伝いしてもらってよいという優遇ぶりである。
さて、話が逸れたがここからエピソードが始まる。親父は私に心配をかけまいと、辛いことも一切口に出すことなくお袋の介護をしていたことは、私が当の親父を介護し始めてから知ることになった。
それは介護をしたことのある人なら誰でも知っているような様々な介護用品の残骸に属するものが残されていたからである。かなりの部分は、親父が独り暮らしを始めた頃に処分したようだが、それでも処分しきれずに沢山残っていた。
これからは、親父に関係したものを処分しなければならないが、ひょっとして自分のためにも必要かも知れない(?)と思うと、思案のしどころでもある。お袋は87歳で他界した。親父との年齢差は一つ半だから、これは正にまた老々介護であったわけである。
その介護をする親父も、どうやらその頃から脳梗塞の兆候があったらしいことが後から分かった。それは、たまに出張の途中に実家に立ち寄ると、それまで何10年も晩酌の習慣がなかったのに、連日焼酎の炭酸飲料割を少々口にするのである。本人の弁によると、「これを飲んじょくと(でおくと)、実に調子がええ」と言っていたからである。
その時すでに片手、片足、つまり半身麻痺の軽い症状が出ていたらしく、年に1、2回位の割合で頻繁に軽い交通事故を起こしていたようだ。自動車修理工場の社長の証言と実家に幾つも残されていた複数の示談書や支払い領収書が証拠である。実家の整理をしていて社長の証言が正しいことが判った。それまでは全く知らなかった。
そのような状態下でも、お袋に新鮮な牛乳・野菜・魚などを食べさせるために、雨の日も風の日も毎日車で近くのスーパーに買い物に出かけていたという、これはスーパーの(レジの)店員さんから聞いた話。
お袋の葬儀の時には、杖で短時間立っているのがやっとであった。呂律(ろれつ)も時に怪しく、私でも聞き取れないことがあった。お袋が亡くなるまで親父のそんな症状は見たこともなく、私が知っているのは僅かばかり指先の動きが悪い程度だった。
私はいつも3日以上休みが取れると実家に帰り、親父の様子を見ていた。それでも紫陽花はひと言も愚痴はこぼさなかった。「自分の親は自分で看るる」というお互いの約束があったからである。
ある日、どうも火の取り扱いが心配なので台所に火災報知器を取付けてやった。ちょうど、各地で消防署がその設置を呼び掛けている時期でもあった。そして、少しでも危険な火を使う回数をを減らすために、新しい大き目の保
温ポットも買っておいた。
ところが、それが大いに役に立つ事件が発生した。