老人介護のエピソード


(2)自分の親は自分で看る

 ひと口に老人介護といってもいろいろなパターンが存在する。だが老人介護とは、早い話が所詮は「食事と下の世話」、敢えてつけ加えるなら「病院への付き添い」と言っても過言ではなかろう。

我が家では若いうちから夫婦で相談して、「お互いに自分の親は自分で看よう!」と決めていた。当時としては晩婚であったし、幸か不幸か、子どもに恵まれることもなく、その点では、親の面倒を看るには条件はいい方だったかも知れない。

 「自分の親は自分で看る」ことは口では簡単でも、男の場合は結構難しいことも多いものである。前にも述べたが必要知識があまりにも少な過ぎるのが一般的である。紫陽花は妹が1人、残りは男4人の兄弟姉妹、私は一人っ子であった。紫陽花の妹には、2人の子どもがいて大学や大学院に行かせるために教育費も大変であり、妹が彼女の親の面倒を看るのもままならない状況でもあった。

老人の面倒を看るには、一般的に男はアテにならないもの。やはり家庭的な知識に疎(うと)過ぎると言える。それに紫陽花の実家では、一番下の弟が50歳代前半の若さで夫婦とも亡くなっている。残った二人の兄も弟も役に立たず、オマケに家督を継ぐべき長兄も親より早く62歳で亡くなってしまった。その 結果、我が紫陽花がすべてを仕切りる感じで両親の面倒を看ることにとなってしまったのである。

 私は常日頃「私のことは構わないから、後で後悔をしないようにしっかり親の面倒を看てあげなさい」と紫陽花に言っていた。親父さんの介護が始まるやいなや、彼女は市のヘルパー養成講座に申込んで勉強してヘルパーの資格も取得した。別に自分が将来稼ぐためでもはなく、知識の吸収のためである。

その頃、私はある県で薬品工場の建設のために長期出張をしていた。製造プロセスの設計は専門担当者がするが、全機械装置の開発・設計は私の担当分野であった。機械の設計・製作の間に建物の建設は専門の工事監督(建設事務所の所長)が担当、機械の搬入が始まると私も参加して2人で監督した。

ほぼ建設関連が終わったところからは、私が所長になり現場責任者として試運転・引き渡しまで管理した。ちょっとイレギュラーな方式だが、日本で初めての生産方式によるもので、機械の担当比重が大きかったことにもよる。

 紫陽花はこの間、自宅近くの家庭菜園やヨーガ教室などいろんな趣味も続けながら、静岡(沼津市)の実家でお袋さんのする親父さんの介護のお手伝をしつつ、さらに、私の借りていたウィークリーマンションにも陣中見舞いと称して時々来てくれた。当時は新幹線を乗り継いで5時間も6時間もかかっていた。お袋さんだって老々介護だから、少しは休まてあげないと身が持たない。

亡き親父さんは、いつも下の世話をする度に「○○子、すまんなぁ、お前にこんなことをさせて・・・」と、言っていたそうである。また「お前の旦那さんに悪いなぁ・・・、時には会いたいなぁ」とも言っていたそうである。

 2年余りの仕事がやっと終わり、「暫くお義父さんに会っていないし、休暇も取れたから、たまには僕もお見舞いに行こう!」と言って2人で出かけた。それは雪の降り止んだ冬のある日のことだった。

 見舞いの合間に妹夫婦と親戚のミカン狩り出かけて帰ってきた時のこと。どういう訳か、たまたま孫たち夫婦も遊びに来ていた。何度か似た話を耳にしたし経験もあるが、霊が皆を呼び寄せたのかも知れない。

出かける前にお義父さんの手を握り、暫くのご無沙汰をお詫びしたばかりで喜んでくれていたのに・・・。私たちの帰りを待っていたかの如く、突然に様子が急変。直ぐに私は救急車を呼び、脈を診るがどうも感じない。お義父さんの孫にも確認させたが同じだと言う。生まれて初めて救急車に同乗、病院で他界が確認された。

 紫陽花が言うには、「いつもあなたを気遣ってくれて、待っていてくれたみたいよ」と。でも、彼女に悔いは全くなかった。自分の生活をある程度犠牲にしながらも、お袋さんを助け、誠心誠意尽くしてあげた結果である。私達の協力にもお袋さんから大変感謝された。その頃、私の親父は必死に自分の妻の介護に努めていたのである。

 

私はそれを全く知らなかった。 

 

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