老人介護のエピソード
(10) 糸通し 3万円? 私も行きたい!
連日、緊張する話や汚い話が続くので、本当の笑い話もしよう。例の火柱事件が起きた頃は、私はまだ東京に勤務していて埼玉の自宅から通っていた。独り暮らしの親父は、朝食と昼食は自分で作ったり買い物をしたりで、夕食だけは後日ショートステイに行くようになった施設(従弟の勤める病院)からの配達弁当を食べていた。ケアマネージャーの配慮で安否確認の意味もあり、市の補助も一部出ていた。
配達してくれる方は年配者もいたが、比較的に若い主婦や独身女性が多かった。親父はいつもその配達員達に高級果物などをお礼に渡していたようである。私に言わせれば、全くもって無駄である。年寄りというものは、親切に笑顔で声を掛けてくれたり、手を握ってもらえるだけで大変喜ぶもので、若くて異性であればなおさらのことである。
これ(適度な身体接触)は、介護の基本動作でもある。(実験してみるとよく分かる!)親父も例外にもれずその類(たぐい)であった。私がたまに帰郷して冷蔵庫を除くと、野菜室の中には大量の巨峰や白桃があり、一部は傷み始めている。私の家庭では日常的には食卓に上がらないような代物が含まれている。理由は単純で配達員が喜ぶからだと言う。
前に書いた従弟が教えてくれた。「あなたのお父さんは、うちの病院じゃ有名人になっちょるけーのー(なっているからねの意)」と。
理由は上に書いた内容だが、どの配達員も「私もUUさんちに行きたい、私も……」と人気なのだそうだ。そりゃ~そうだ、私だって弁当を届けたいよ~! しかも彼女たちは、面倒なのにいちいち履物をを脱いで玄関から上がって、一番奥の食卓まで運んでくれるのである。片手で杖をつきながら弁当を持って歩くこと考えると、親父の気持ちも解らない訳ではない。
ある日のこと。親父がミシンの糸通しに苦労している時に配達員がやって来た。親父はサラリーマンで、肉体的または技能的なことには縁がなかったものの、料理以外はほぼ何でも器用にこなせる人間で、私も負けそうな位である。(もちろん、私は親父よりアイディアも技術もさらに上を行くが…、その血を引いていることは確かである。)50年位前の希少価値も出そうなミシンだが、修理をしながら親父は器用に使う。ただ何せ90歳を過ぎた人間だから白内障や老眼の影響もあり、なかなか糸が通らなかったらしい。
そこへ助け舟が来たようなもので、早速お願いし目的が難なく達成できたのだから嬉しいかったのだろう。
古い人間だから他人をタダで使うことには憚(はばか)る、お礼のつもりで千円札を探したのだが無くって奮発して1万円札を渡したつもり!!
ところがその頃から手の不自由度も増したこともあり、ピン札で3万円が1万円札にしか認識できなかったようである。もちろん、当の配達員はびっくりして辞退、一銭も受け取らなかったとのことである。
例の果物の件もそうだが、この糸通し3万円の話といい、あっと言う間に病院中に広まったそうである。我も我もと弁当配達員の人気者になり、皆が今日は誰が何をもらって来るかと予想までしていたという笑い話がある。
ショートステイの準備も、結構大変である。